昭和五十六年七月十日 朝の御理解
御理解第五十節
とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物が出来るようなものぞ。
大阪の泉尾教会長であります三宅先生が口を開かれると、我鈍物と云うことをいわれますね。私は鈍物だとこういう。その意味がひとつも分からなかった。とても鈍物であれだけのお教会が御比礼を受けられるはずがないと思う。所が最近、私自身を本当に、私のような鈍物はないなぁと思うようになってきた。
まあ前々から私のようなふうたらぬくい男はおらんなぁと本当にそういう風には思うてきた。けれども、鈍物とは思わなかった。私は教祖様の御教えを頂きますと、これ程に、はっきりと間違いなく、御教え下さっておる御教えを、まあ三十才で信心の目が開けたと云うなら、三十才までは全然それに気付かなかったということに気付いております。鈍物の証拠だと思う。
これ程おかげを頂ける、お徳を頂ける。まあ今日の御理解で云うなら、ひとりでに物がでけるようなおかげを頂くためには、とかく信心は地を肥やせと仰せられる。地を肥やさなければ、ひとりでに物がでけるようなおかげにはならない。もう目先目先のおかげさえも頂けばよいと云うような信心で、云うなら三十年間終始しておったという事はどんなに考えても鈍物の長だと思うんです。
そこで、私は思うんですけれども、合楽で皆さんが御信心を頂かれてね、まあ云うならば、これ程教祖の神様の御教えを云うなら、噛んでふくめるように、しかも私が、それをひとつひとつ体験してお話を聞いて頂いて、なら今日までは、まあ合楽の御比礼というのは、まあひとりでに物がでけておるような状態ではなかろうかと思うのです。ね。
ですから私の話を聞いて下さる事を、実験して下さるしかも合楽の場合には、その気になりゃ、誰でも実験がでける。そしてそこには必ず実証が生まれてくるから楽しいのである。有り難いのである。そういう信心をですね。本当に皆さんがね昨日の御理解ではないですけれども、練り出そうともしなかったら、こんなに馬鹿らしい、もったいない話はないと云うことですね。ひとつ本気でね、結局私が合楽、椛目を通して、三十年間といたしましょう。それ前が三十年間、三十年間も信心、一生懸命まあ、する事はしよったけれども、そういうひとりでに物が出来るようなおかげの頂ける手だてという事に気付かなかった。
そして気付いてその事が実験実証されておるのが、今日の合楽教会である。してみると、合楽教会に、御神縁を頂いておられる方達ちゃ、それを見習い聞きならい、さえしさえすりゃよいわけである。
しかもそりゃ、難しいそげな事は出来ませんということはない。ね。例えばいよいよ黙った治めるということに徹すると云うこと、もういやが上にも自分の心は豊かに大きくなって行く、いや豊かになって行くだろうね、そして育っていくならば、大きくなって行くことであろう。ね、折角ひとりでに物がでけるようにと云うようならば、一反のとこよりか二反、二反よりも五反、一町もそれ以上にもというような広い大きな所から、ひとりでに物が出来るようなおかげを頂くことが望ましいとするならば、それだけやっぱ豊かに大きくならなきゃいかんということが分かりますでしょう。
昨日、久留米の佐田さんがお知らせを頂いたと云うお届けにみえたんですけれども、美しいという字をね、下にこう大という字が書いてありますね、この美しいという字を頂いて、下の大という字だけが特別大きくこう頂かれたとこういうんです。あの人は心の美しい人だとね、そういう人がありますがね、その美しいというのもやっぱり大きくならなければダメだということです。ね、豊かな心大きな心ね、あの人は美しい人だという、美しいその心が育って大きく育って行くというところに、信心の稽古があるんです。ね。
神様がそういう風に直接、お前は美しい心の例えば女だと、けれどもそりゃあんまり細かい小さいこりを大きく育てて、まちっと大きく育てんかとまあ、佐田さんにいわれたんじゃないでしょうか。ね。大きく育てるから、いうなら一反寄りも二反、二反よりも三反というようにね、いうならばおかげの場というのが広がって行くのですよね。お金に不自由しないとただ云うてもね、百円のその日暮らしもありゃ、千円のその日暮らしもある。一万円のその日暮らしもあるように、同じその日暮らしでも大きな私はその日暮らしがでけるようなおかげを頂きたい。
その為には先ずね、自分の心を豊かにしていくことのために、まあそりだけの事じゃないでしょうけれども、黙って治めるというような頂き方。有り難くそれを頂くということになりゃ、それが全部肥やしにならないはずがないです。肥やしにしよるかと思うと、又次には荒らしてしまうといったような事ではね、だから問題は徹すること。私なら、三十年間は鈍の生活であった。信心であった。ひとたび目が覚めてからこちらの三十年間というのは、いよいよ自分の心をひとりでに物が出来て行くことの為の楽しみとか喜びが段々大きくしていかずにはおれないというのが、今日の合楽の御比礼である。ね。だから皆さんが私の話を聞いて下さりよると、親先生は三十年間どういう信じんんをなさったかということが
いつのお話の中でもでてくるわけ。ね。
だからそれを皆さんがです、昨日の御理解じゃないけれど、話を聞くばかりが能ではない、我心からも練り出せと仰せられる。聞くだけじゃいかん。それを実験してみる。そこから練り出されてくるに従って、信心が豊かに大きく育って行くということでございます。 どうぞ